六弦一会:
恋をするように
2012年05月17日
皆さん、恋をしていますか?
「恋」という言葉はいいですね。
英語だと「愛」も「恋」も“LOVE”なんでしょうけど、「愛」と「恋」が違うところが日本語の妙です。
「愛」というと、「家族愛」とか「郷土愛」とか「人類愛」とか、広い意味がどうしてもくっついてきてしまいます。
でも「恋」というと、もっとピンポイントな対象に向けての強烈な思い、という感じですよね。そこがとてもいいと思うのです。
村上春樹の音楽エッセイ『意味がなければスイングはない』に、こんな一節があります。
「僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。」
ちなみに僕はハルキストではありませんし、村上春樹とは現代で最も過大評価されている作家のひとりだと思っているのですが(個人的な考えですので、あなたの意見と違っていても許してください。僕たちはジョージ・オーウェルの『1984年』の世界に生きているのではないのですから。……と、少し春樹的な免責文を書いてみたり)、この文章を初めて読んだときには涙が出そうになりました。
僕が音楽を聴く意味の一端を教えてくれたというか……いや、そうではなくて、音楽を聴くという訳の分からないけれども、自分にとってはどうしようもなく大事で、必要な行為に、それが正しいかどうかは別として、ある意味づけをしてくれた喜びがあった、という感じでしょうか。
村上春樹の良さというのは、作品自体の良さよりも、こういうちょっとした、けれども個人にとっては大きな意味のある気づきや示唆を与えてくれるところにあるのではないかと思います(個人的な考えですので……以下同文)。
まるで恋をするように音楽を聴く――僕にとっては、ギターを弾く行為も同じです。
そこには楽器自体のぬくもりととともに、記憶のぬくもりがあります。
それは自分自身の記憶のぬくもりであると同時に、ギターの歴史、ロックの歴史、音楽の歴史が持つ記憶のぬくもりでもあります。
例えば、ジミ・ヘンドリックスのあるフレーズを弾くとき、そこにはジミの生涯の記憶、60年代という時代の記憶、そのフレーズを成り立たせたロックンロールやR&Bアーティストたちの記憶、その基となったデルタ・ブルースマンたちの記憶など、様々な記憶が宿っています。
そして、それらの記憶がひとつになって、ぬくもりを醸成しているのです。
ギターを弾くという行為は、そのぬくもりをこの身に感じ取ることでもあるのだと思います。
自分の人生を振り返ってみると、ギターがなかったら僕は生きることをとっくに放棄していたかもしれません。
そんな僕にとって、恋をするようにギターを弾くのではなく、ギターを弾くことが恋そのものなのでしょう。
この記事のトラックバック
http://targie.jp/b/001/tb.php/49